つれづれなるままに |
2007年4月 |
4/6 | ハタハタの寿司 |
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北海道・十勝に暮らしていた頃、我が家には毎日のように誰かしら来客があった。 夕ご飯のときに、家族だけで卓袱台を囲んでいた記憶はほとんどない。 亡父は呑兵衛で客好きだったし、亡母は料理が上手な人で、それを目当てに来る人も多かったのである。 訪れてくれば厭とは言えない。 母は火の車の家計をやりくりして、工夫の料理を手早く上手に作って並べる人だった。 爪の垢ほどの知恵でも欲しかったが、食いしん坊だけは遺伝して、肝心のものは貰えていないのが残念である。 その来客の中に、そこそこ年配のAさんという人が居た。 何かの事情でその当時は独り身であったその人は、どういうわけか亡父と意気投合し、彼が一番我が家の食卓に居る機会が多かった。 私は団欒の場を邪魔されてそれが厭でたまらなく、Aさんが顔を見せると不機嫌になったものだ。 おまけに彼の風体は少しヨレヨレで、あまり(いや、かなり)見目良くなかったのもその理由の一つだった。 「ご飯ぐらい自分の所で食べればいいのに。」と、こっそり台所できつい調子になる私に、母は諭すように言ったものだ。 「不自由されているのだから許しておあげ。それに、一人でご飯を食べるのは寂しいものよ。」 いくら諭されても叱られても私の腹立ちは収まらず、無愛想にそそくさとご飯を済ませると部屋に引っ込むのが常だった。 その、いかにも不器用そうに見えるAさんが、毎年冬になると決まって、浅めの木樽いっぱいにハタハタの寿司を作り、意気揚々の態で運んくるのである。 いつもご馳走になるのだからたまにはと、自慢の料理を提げてくるのは可愛いものだが、当時の私はまだそんな気持ちが理解できるほど大人になってはいなかった。 勧められて仕方なく一口は戴くがさっさと箸を置く、ほんとうに可愛げのない子どもだった。 その寿司はなれ寿司と呼ばれるもので発酵させてあり、元々子どもが好む味わいではなかったが、そんなことよりも「嫌いなおじさんが作ったもの」という意識が勝っていたのだろう。 この歳になって振り返ると、ほんとうに申し訳ないことをしたと心が痛む。 そのハタハタのなれ寿司を、最近どういうわけか無性に食べたくなる。 年齢と共に嗜好が変化したのか、それとも、毛嫌いしていたものへの昇華ができるまでに、これほどの年数が必要だったのか...。 ハタハタ以外に何が入っていたのかはハッキリと覚えていないのだが、淡雪のように見えた麹とニンジンの朱だけがくっきりと脳裏に浮かんで消えない。そして、その朱と連なるようにして、底に敷いてあった笹の緑が鮮やかに甦る。 幾層にも丁寧に詰められたハタハタの寿司は、私の思い出の中に苦く、そして少しばかり哀しみを伴って沈んでいた。 先日、古書店を覗いて何気なく手に取った本がある。 もう14〜5年前に刊行された「お米紀行」(副題〜郷土の味と文化を訪ねて・石原健二著)を、パラパラとめくっていて驚いた。 ハタハタ寿司が載っているではないか...。薄汚れた本だったが、購入してきたことはいうまでもない。 大体、私の好む本というのは万人向けではないのか、よく古書店で目に留まる。 kiiさんは「いつも、よく見つけてくるよなぁ。」と呆れるが、本が私を見つけてくれる・・そんな感覚もある。 ハタハタの寿司は、お米は炊いて麹を入れて一晩寝かせるのだが、ハタハタにはなんとも面倒な下処理が施されているそうな。 一週間ほど塩漬けにしてから骨ごと切り、二日ほど酢に浸してからやっと木桶(或いは木箱)への漬け込みに入る。 木桶の底に笹を一面に敷き、その上に一晩寝かせたご飯を薄く敷き、その上にハタハタを並べ、またその上に柚子や生姜、人参の千切り、昆布や海苔をのせる。(この作業を漬け込みという) そして再びその上に笹の葉を敷き、桶がいっぱいになるまでそれを繰り返し、いっぱいになったら蓋をして重石を置き、二週間ほど寝かせて上から一段ずつ食べていく...。 私たちは丁度食べごろになった時に戴いていたということで、あのAさんのハタハタ寿司には、これほどの手間と時間が掛かっていたのだ。 私ときたら、仏頂面で要らないとばかりに押しやっていたのだから、ほんとうに酷いことをしていたものだ。 残念ながら、今はもうその季節ではないが、次の旬が訪れたら、きっとハタハタの寿司に挑戦してみよう。 記憶の中のかすかな味わいを頼りに、まともに作れるようになるまでは試行錯誤を繰り返すことだろうが、いつかAさんのハタハタ寿司に近づける日が来ることを願って...。 |