つれづれなるままに |
2006年4月 |
4/13 | どっぷりと・・・。 | ||||||||||||||||||||||||
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冬場は映画や本にどっぷりと浸かりこむことが多い。 庭仕事に精魂を傾ける季節ではないので、例年それらしき傾向はあったのだが、それにしても今年はかなりのものだった。 それこそ「寸暇を惜しんで・・・。」という表現がピッタリだと、我ながら苦笑するほど激しかった。 なにしろ、時間がなければないほどのめり込むという、悪しき習性を私は持つ。 町の住まいからゆっくり歩いて20分ほどの距離に、新しくレンタルビデオ店ができ、客寄せのサービス期間中は旧作ビデオ・DVDが1本100円という安価さ。 その上、サービス券を利用すれば、何と1本50円で映画を楽しめるという。 これを逃す手はないと、せっせとDVDを借り映画を楽しんだ。 でも、それがである・・・。凡人の哀しさか、たくさんの映画をいっときに観ると、それぞれが勝手に入り混じり、結局、筋立てさえもはっきりしなくなるのである。 「数少なくても、観たい映画をジックリ観る。」式の私たちの従来の観方が、自分たちには一番合うのだと納得した次第。 それにしても、そこまで理解するのに70本も観るか??とは反省の意味も込めての自戒の弁である。 この冬は本もよく読んだ。 TVを“ながら族”する習慣のない我が家は、好みの番組がないとスイッチを入れない。 (点けている時間が少ないせいか、12年を経過している我が家のTVは、まだ立派に健在で有難いことである。) その結果として本に流れることになる。kiiさんも私も、多分に活字中毒の気味があるのではないかと思う。 この家はどこもかしこも本ばかりだと呆れた人がいるが、本以外に何も無い家だと言いたかったのかもしれないと、ふっと可笑しみがこみあげる。 逆に、本が一冊も見当たらない家を見ると、妙に落ち着かない気分にさせられて居心地が悪いことこの上ない。 だからかもしれないが、収納に関する本を読むのは好きではない。 やり玉に挙げられる処分品のひとつとして、必ず列挙されているのが本だから・・・。 本はあまり借りて読みたい性分ではない。 図書館はよく行くが、どちらかというと「読んでから買う」ためと、「日頃読まないジャンルの本を発掘する」ために利用させて貰っている。 これ以上蔵書を増やすことが憚られ、、必要な本だけをピックアップするためのやむを得ない方法である。 新しい情報は知らなければならないと、時間があれば散歩がてらに図書館通いをしている。 ただ、我が極小都市は図書館に割ける予算が少ないのか、「他館からの借り出し」と」いうのが実に多い。 貸し出し期間はゆっくりあるのだが、他館からの借り物だと思うと妙に急かされる気分になり、あずましくない。 やはり、好きな本は手元に置いてゆっくり何度も読みたいと、図書館の蔵書マークが入った本を積み上げた傍らで呟く・・・。 この春にかけて読んだ本の中から、元気が出る本、しみじみする本、考えさせられた本などを幾つか...。
特に「スター・ガール」は何度も読み返して、私の大好きな一冊に挙げられる。元気が出ること間違いない。 「ドアーズ」はかなり切ないけれど、ほんとうにいい。 理論社の本が多い。 理論社はヤングアダルト(YA・13〜19歳ぐらいの世代を指して呼ばれる。私は12〜18歳ぐらいと考えるけれど...。)向けの本もたくさん出版している、私の好きな出版社の一つである。 好きな本の訳者を見ると、千葉茂樹氏が多い。 リズミカルな文調は、ページを繰る間が惜しまれるほどである。 好みの絵本ばかりを収めている棚をなぞると、その中にも訳者としての氏を発見して吃驚する。 「みどりの船」を画いたクェンティン・ブレイクは好きな絵本作家だけれど、ロアルドダール著の「一年中ワクワクしていた」の挿絵もほんとうに楽しい。 絵本も、児童書やYA向けの本も、意識して集めたものではないから、好きな傾向や作者・訳者は知らずに偏るのかもしれない。
日本の作者のものも・・・。
江國香織著の本はどれも妙に変わっている。妙に変わっているけれど、なぜか心惹かれるものが多い。 こみねゆらさんが絵をつけた「おさんぽ」や「すきまのおともだちたち」は、またとびっきり幻想的なお話である。 画像はないが、いしいしんじ著の「ぶらんこ乗り」「麦ふみクーツェ」(共に理論社刊)は、図書館で借りてウィッシュリストに加えてある。 挙げた本は児童・YA向けの本が多いけれど、これは好みの問題で、他の本をまったく読んでいないのではない。 「脳内汚染」 岡田尊司著 文藝春秋社刊 「食品の裏側」 安部司著 東洋経済新報社 「梟首の島」 坂東真砂子著 講談社刊 「<旭山動物園>革命」 小菅正夫著 角川新書 これらは最近とても印象に残った本である。 庭仕事に追われる季節がやってくると、映画も本も「積んどく」になる。 次の冬への愉しみをせっせと積み上げて、私は草引きに精を出す。 |
4/04 | 不思議な光景 |
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昔は見なかった...。 信号待ちで、暮れなずむ町の様子をぼんやり見ていた私の耳に、kiiさんの声が響いた。 「あれはいったい何だ??」 前を見やると、歩行者信号が点滅しだした交差点を、5人の少年たちが横切って行く。 「どうして一人だけ走っているんだ?」 4人の男子は自転車に乗り、一人はそれを追いかけるように走っているのだ。 「自転車が無い子にどうして合わせないんだ?どうして一人だけ走らせて平気なんだ?みんなが降りればいいじゃないか!僕らが子育てしていた頃、こんな子どもたちがいたか!?」 初めて見たkiiさんには、如何にも奇異な光景に写ったらしい。 「昔」などと言えば古いと切り捨てられそうだが、我々の子育ての中でこんな光景にはお目にかかったことがない。 仮に自転車に乗らないことが彼の意思であっても、一人だけを走らせただろうか。 まさか、トレーニングのつもりで、わざと自転車に乗らずに走っているというものでもあるまい。 もしそうだとしたら、こんなトレーニングは今風の流行なのか...。 「時折見かけるのよ、こんな子どもたち・・・。」 最近の風潮だと呟いた私に、kiiさんは「信じられない。」と言葉を返した。 もっと嘆かわしい光景もあると私は話を継ぐ。 これはよく見る光景である。 数人の少年が道路を連れ立っているが、スナック菓子の袋を抱え歩きながら食べている子、たこ焼きを頬張っている子、その横でただ話しながら歩いている子・・・。 彼は路上での飲食を戒められているのか、それとも買えない状況なのかと考え込んでしまう。 一人で菓子袋を抱えている子どもは、今では珍しくない。 kiiさんは絶句してしまう。 食べるなら分け合う、分け合えないなら食べないと、それが子どもたちへの躾だった。 私たちが子供の頃にもそう躾けられたものだった。 最近は電車などの公共の場でさえ、人目を憚らず食べ化粧などをする輩が少なくないけれど、幼い頃からのこんな癖が、抜けきれないどころかますますひどくなっているように感じる。 躾のできない大人が躾の出来ていない子どもを育て、その子どもがまたと考えると嘆かわしい。 大げさな言い方だが、権力を持つものが力なきものを圧する、現代社会の縮図のようにも思えて、こんな光景を目にするたびにドキリとさせられる。 「みんな仲良くご一緒に、お手手繋いでゴールイン...。」 そんな、首を傾げる運動会のごとき平和主義を唱えるつもりはない。 人間一人ひとり、みんな違って当たり前。 でも、個性を大切にするということは、社会生活のルールを軽視していいということではない。 それが、どうだろう・・・。現代は、いかに自分勝手な自己主張が跋扈していることか。 WBCでのイチローの、あの少年のような瞳の輝きと、「素晴らしい仲間...。」のコメントを思い起こしては、かの少年たちの姿に考えさせられている。 |