つれづれなるままに

目 次(以前のひとりごとへ)

2006年|4月5月9月10月11

2006年6月
    
【オオルリ夫婦の子育て】 【この季節に想うこと】
 
6/14 オオルリ夫婦の子育て   「オオルリ夫婦の子育て日記」
建築中のリビングキッチン(LK)の一角に、鳥が巣を掛け始めたのは5月の初旬だった。
簡易台所と機材収納庫への途中にあるその場所は、頻繁に通行する。そんな場所に巣など作られたら大変だと、速やかに退散願うことにして、kiiさんが水蘚の巣を取り除き、10mほど離れたテラスの端っこに置いた。水蘚は乾いたら利用させて貰おうなどと、虫のいいことを考えたのは私である。そのまま忘れていたのだが、その数日後またまた同じ場所に巣を作り始めてしまった。まさかと思いながらテラスを見ると、置いたはずの水蘚は陰も形もない。そっくり戻して巣作りを再開していたのには呆れ返り、何の鳥かは知らないけれど、それにしても大胆かつ思慮分別のない鳥だと思わず笑ってしまった。困ったものだと言いながら、仕方がないと私たちは諦めることにした。

少しずつ高くなっていく水蘚の巣を、主の気配がないときにそっと覗いてみると、中はお椀のようにぽっこりと丸く設えられ、なかなか器用なものだと感心する。

時折姿を見せるのは背が茶色っぽくて腹部が白い鳥。正体は判らぬままにその一週間後3個の卵を確認。翌日には卵が4個になっていた。
その日から私たちの息を潜めたような気遣いの日々が始まったのだが、謎の鳥は多分そんなことは気にも止めなかっただろう。
卵を抱いている時に私たちの気配を感じるとすぐに跳びたってしまい、まだ冷え込む朝晩の気温に、うまく孵化するかと気を揉む。「居る?居ない?」が合言葉になり、これはまるで親の心境だと二人顔を見合わては苦笑する。
それでもいつの間にか、巣の傍ら50cmの所を歩いても(ただし、ヒッソリ。そして、決して見上げない、目を合わさない。)母鳥は平気になった。これは多分、慣れたのではなくて、母性の本能の方が勝ったのだろう。
内心はビクビクで、恐怖心が強かったのではないかと思う。
抱卵しながら子どもたちに話しかけているのか、時折とてもいい声で鳴くのだが、依然として「謎の鳥」の範疇からは出ていなかったから、私たちの呼び名は「鳥」という味気ないものだった。

そして二週間後の週末には、めでたくヒナが誕生していた。一羽は無理だったのか、三羽のヒナを確認する。
この時点で、謎の鳥はずっと一羽の単独行だと思っていた。
「雄はいったい何を考えているのかしらね。産んで育てるのは雌任せなの?無責任な話だよ。」と私は怒っていた。
早朝のこと、シッと言いながらkiiさんの指差す先を見て驚いた。
何とログ前の白樺の枝に止まっているのはオオルリではないか!
口いっぱいにうごめく虫を咥え、私たちの動向を覗っている様子。これがあの謎の鳥の夫なのか!?
日本の三鳴鳥のなかでもオオルリに関しては「天は二物を与えた」と言えるが、それは雄のこと。
雌鳥は地味で、目立たない。
でも、二羽の親鳥が白樺に止まっているのを見ても、ようとは信じられない思いのほうが強かった。
「まさか、まさか...。」
意を決したようにLKに飛び込んでいく二羽を見て、ようやく、あの巣がオオルリのものだったと確信する。

オオルリの遊びに来る庭」にずっと憧れていた。
野迫川倶楽部のある辺りは古来「オオルリの谷」と呼ばれているそうで、シーズンになると、高い梢で囀る声はよく聴こえるものの、まだ一度も姿を見たことがなかった。
野迫川村で週末を過ごすようになって10年。最近は庭を訪れる鳥たちの種類もかなり増えている。
姿を確認しているもの、姿は見えないけれど鳴き声で確かに居るとわかるものを数えたら20種はいるようだ。
声と名前が結びつかないものもまだかなりある。
オオルリは「姿は見えないけれど鳴き声は聴こえる鳥」のナンバーワン的存在だった。
それが、今年初めて、春先にチラリと庭を飛び回っているのを目にした。そのコバルト色の美しさに目を奪われ、声がないほどの喜びでいっぱいになったものだ。
オオルリは渓流沿いの崖などに水蘚で巣を作ると、図鑑などには書いてある。
だから謎の鳥の正体を探るのに、オオルリであることは意識の外に置いていた。まして人の気配がある場所に巣を作るなどとは想像だにしなかった。
餌を運ぶオオルリ氏 二羽の鳥はセッセと餌を運ぶ。
その航路が野草茶の陰干しエリアの上にあるものだからたまらない。
野草茶をひっくり返しながら、私は不気味な落し物に悲鳴をあげかけて慌てて口を押さえる。
餌を運ぶオオルリ奥さん
親鳥の呼び声に呼応するように、まるで鈴虫のような可愛い小さな声が餌をねだる。その間隔が少しずつ狭まり、声が次第に大きくなるにつれて、オオルリの給餌回数も増え続ける。
ひもじさの元凶だとヒナに責められているような気がして、私たちはしばしば作業を中断させられるようになった。
ヒナも要領のいいものと悪いものがあり、一番に背伸びをして大きく口を開けて餌を食べるのは右端の子。左端に居るのは要領がまことに悪く、いつもお腹を空かせているようだ。アッ、また貰い損ねたと、草引きを放棄した私はこっそり隠れて観察する。
一度の給餌量は雄のほうが多いようだが、回数は遥かに雌が勝っている。雄は臆病者で、一度私たちの姿を見るとLKへ突入するまでの決断が長引く。長引くせいか、何度も獲物を口から取り落としそうになる。その点、雌は本能のなせる業か、雄に比べるとかなり大胆である。

白樺に止まって、二羽が「ピョ〜、ピョピョピョピョ」と鳴いている様子は、まるで雄が雌に叱られてでもいるようでクスリと笑ってしまう。
「こんな所に巣を作ってしまって、“僕たちの失敗”だね。」
「何を言っているんですか。あんたがこんな所に巣を作るから、私や子どもたちがどんなに神経を使っていることか。もっとしっかりして頂戴!!」 差し詰め、こんなところかもしれない...。

そして次の週末のこと、雌が二羽居るのはどうしてかなぁという怪訝そうなkiiさんの声の後に、少し間を置いて、早くと強く呼ぶ声が続いた。
巣立ちするヒナ 慌てて駆け寄ると、何と、巣の縁に小さな小さなヒナがちょこんと、まるで立っているように見える。
「エッ、二羽しか居ないよ。」「さっき雌が二羽に見えたのは、一羽がもう飛び立ったのかもね。」そういえば、一番右側の席が空白になっている。それぞれが自分たちの定位置通りに留まっているのが面白い。
LKの外から見守っていると、ヨイショッとばかりに一羽が飛び立ち、飛行に失敗して床に転げた。もう一羽は、少し飛んだが窓枠まで届かずに墜落してしまう。
邪魔をしないように遠くに離れる。
何度かチャレンジの後にようやくうまく飛行して、30mほど離れた三本のエゴの木の辺りに消えた。
「飛べるようになったら一気にあそこまで行くのよ。」と言い含められてでもいたかのような、見事なヒナの初飛翔だった。
昨日は飛行の訓練などまったく目にしていなかった。ひょっとしてその前から訓練期間に入っていたのか、そうとしたら落下したあのヒナのドジぶりはどうだろう...。私たちは彼らの飛び去った方をあっけにとられて見送る。

この飛翔は親鳥の知らぬ間のことだったのか、餌を運んできた夫婦は、呼びかけに答えないヒナたちを慌てて探している様子。
それでも少し後には、エゴの辺りで親と子の語らいが微かに聞こえ出して、ホッと胸をなでおろす。
親鳥はきっと、この日を一日千秋の思いで待ちわびていたことだろう。
これが私たちとオオルリ一家との別れになった。

野生だから心配ない。親もついていることだしね。というkiiさんの言葉に頷きながらも、カラスが来ないかと心配げに空を見回し、飛行訓練をしているのか、そんな気配を感じながら耳を澄ます。
降りだした雨にも、濡れそぼって冷え込んでいるのではないかとつい案じる。
翌日、彼らのエリアはもう少し奥の、より安全に思えるホウの木の辺りに移動したようだ。
そこまで飛べるようになったのかと、一安心する。

巣には、生まれ出ることのなかった卵がひとつ残されていた。

今でもオオルリ一家の、あのさまざまな鳴き方が耳の奥をたゆたっている。
つぶらな瞳が不意に浮かんで、ため息とも安堵とも言いがたい吐息が口をつく。
巣立ちの喜びと寂しさは娘で充分に味わったはずなのに、今また同じような感慨を抱いている。
二人とも、時折、主の居なくなった巣を見るともなしに見上げながら、この一ヶ月の張り詰めた日々と感動を懐かしく思い起こしている。

 
6/06 この季節に想うこと
またまた医療に関する話題だが・・・。

4月1日から朝日新聞に掲載されている「患者を生きる」を読んでいる。
このシリーズはまだ続いていて、6月6日現在bT6を数える。
がんを生きる人たちの闘病の記録である。
それらを読みながら、私は亡母に想いを馳せている。

母が倒れたのは40代前半のことだった。
身体の不調を感じて診察を受けたのだが、異常なしの結果が出て、その半年後に救急車で運ばれた。
その時はすでに手遅れの状態にあると言われた。病名は子宮頸がんだった。
半年前に検査を受けていたのにどうして? 検査方法が現代のように進んでいなかったから?

その当時、医者といえば権威の象徴で、人を寄せつけない恐れ多き存在であり、患者はものを言える立場にはなかった。
丁寧に症状を説明して、治療法も伝達してくれる医師など、当時はほとんど見かけなかったし、尋ねでもしようものなら煩いと毛嫌いされ、治療もぞんざいになるなどという話も聞かされたものだ。
患者はまるで生殺与奪の権利を預けたかのように小さくなっていた。
今でもそれはあるのかもしれないが、それでも40年前に比べるとずいぶん変わったと思う。
「インフォームド・コンセント」・「セカンドオピニオン」に類したことを考えるなど、一切タブーとされたものだったし、そんな言葉は一般人の耳にはまだ届いてもいなかった。

奇跡的に母は助かったが、そこには大きな落とし穴があった。
手術後に高熱が続き、医師や看護婦に幾度も訴えたのだが、「術後の熱です。」と一蹴され、知識のない者には、後にそれが母の苦しみの元凶になるなどとは想像もできなかったのだ。
あまりに長く高熱が続き、やっと専門の医師に回されたときには、母の腎臓は片方が駄目になり、もう片方は常人の半分の能力に落ちていたという。
「もう少し早く来てくれていたら」との専門医の言葉に、どれほど口惜しい思いをしたことか。

それが因で、母は苦しい闘病生活の果てに59歳で世を去ることになった。「がん」によってではなく・・・。
今ならこれを「医療過誤」と呼ぶのだろうか。
医療訴訟はお金と時間が途方もなく掛かり、貧乏人が手が出せるものではないと、苦しみの中で母が相談した弁護士は言った。調査したところによると、カルテの改竄も行われていたそうな...。
弁護士も医療裁判には二の足を踏むと言われた時代だった。
そのころ、患者というものは、何があっても手も足も出ない状況に置かれていたのである。

この季節になると、花や読書、手仕事が大好きだった母を想う。
あじさいの咲く頃に母が逝ってからもう25年。今年もまたその季節が巡ってくる・・・。

*********
医療過誤(いりょうかご)
誤った治療・誤診・誤薬投与など、医療上の過失によって患者に障害・死亡などの事故を起こすこと。
(参照:goo辞書)

インフォームド・コンセント
医師による十分な説明と、それに対する患者の納得・同意に基づく診療。

セカンドオピニオン
担当医以外の医師からの意見をもらうこと。




このページのトップへ keiさんのひとりごとへ