つれづれなるままに

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2004年7月
 
【ラーメンあれこれ(3)】ラーメンあれこれ(2)】【ラーメンあれこれ(1)
   
7/14  ラーメンあれこれ(3)
またまたしつこくラーメンにまつわるお話。
今回は思い出の中にあるラーメン。
北海道の帯広に住んでいた頃、それも小学校の間は特に、私は病弱な子どもだった。
よく風邪をひき、風邪をひくと肺炎を起こし、何週間も学校を休まされた。
一時期は体育も禁止され、養護学級に通うほどだったなどと、今の私の姿を見て想像できる人はまったくいない。

8年間に渡る、丸太を運び土を起こしの週末開拓民生活は、私に厳つい身体を与えてくれた。
女だから弱い、女だからできないとすぐに口にする輩たちを見ると、つい内心でフンと笑ってしまう。
女はか弱きものだなんて誰が決めたの? 昔のおっかさんは強かったよ。
まるで得体の知れないものを眺めるように、我が太き黒々と焼けた腕をチラリと恐ろし気に見ないで欲しいと思う。
そんな視線を感じるたびに私は、内心でフンと笑ってしまうのだ。
そしてこれみよがしに腕を捲り上げる。
「できない」ことと「できるけれどしない」こととは違うのだぞと...。
同年代の女性に比べると私は元気らしい。
自然の中で緑のエキスをたっぷりいただき、太陽の恵みをしっかり浴びてよく動いているせいだと思っている。

話がそれたが、その病弱だった子供の頃、病院に連れて行かれるのがほんとうに嫌いだった。
病院が好きな子どもなどいないけれど、嫌がる私を釣る母の台詞はいつも決まっていた。
「帰りにはマスヤに寄って三色パン(クリームとイチゴジャムとチョコレート入り)を食べようか。それともラーメンがいい?」
病気になっても食べ物に釣られるとは、私はどうも、昔から食い気が旺盛だったらしい。
大通り近くだったラーメン屋さんの名前は忘れたが、店の構えは朧に覚えている。
ウナギの寝床のような細長い店だった。いつも入口に近いテーブルに座ったっけ...。
和風のスープに細麺が絡んだ、あの美味しさがこみ上げてくる。
名古屋の出身ながら関西の味を好んだ亡母だったが、そのせいかこの店はスープの色合いが薄めだった。
具はメンマと半分に切った卵、鳴門、不思議なことに茹でたホウレンソウが入っていた。
チャーシューと刻み葱は記憶にないことを考えると、お子様ラーメンだったのかなと思う。
あの味わいが、湯気越しの母の姿と共にふっと蘇って消える。

高校生の頃は、先輩の伝で農協連でアルバイトをさせて貰った。
バイト生も社内食堂を使えて、手頃な価格でお昼を食べることができた。
私は、お弁当を持たない日はいつもラーメンだった。
「よく飽きないね。」と笑われながら、馬鹿の一つ覚えのように注文した。
その頃のラーメンはいくらだったのだろう。
まったく覚えていないのだが、アルバイト料で捻出したという記憶はないから、社内食堂ということもあって、多分ずいぶん安価だったのだろう。
その時に初めて、ラーメンの上にモヤシが乗っているのを体験し、薄いチャーシューも知った。私にとっては一種のカルチャーショック。
お子様ラーメンから大人のラーメンへとステップアップした出来事だった。
そんなことを考えていると、同じバイト生だった仲良しのクラスメイトたちの顔が浮かんでくる。
もうすでに黄泉の国へと旅立った友もいて、青春のあの日が胸に痛い。
      
7/08  ラーメンあれこれ(2)
お口直しに美味しい話を...。というわけでもないがラーメンの話が続く。

私は食べ歩きが趣味ではないし、またそんな時間的、金銭的な余裕もない。
女連れでお群れ遊ばすおばさま軍団の食欲と喧騒には抵抗を感じるほうで、機会があったときにたまたま入った店が、美味しかったらシアワセぐらいのものである。
どちらかといえば、新鮮な素材を手に入れて連れ合い殿と調理し、共に戴くのが我が家のパターンになって久しいが、麺類だけは例外になっている。

娘が住まう埼玉の武蔵浦和の駅近くに、「むさし坊」というラーメン店がある。
娘たちの最初の子どもが生まれた時に手伝いに行き、その時に義理の息子に連れて行ってもらったのが最初だった。
一度食するとやみつきになり、「娘たちに会いたい」裏には「むさし坊のラーメンを食べたい」も勿論入っている。

ここはまずスープが美味しい。
白濁したスープは豚骨かと見まがうほど。でも、コクはあるけれどしつこくない。
スープのベースは鶏、干鱈、日高昆布、干しえびなどで化学調味料は一切使っていないとか。
味は実にシンプル、好みで醤油ダレや塩昆布などを足したりできる。
大体がラーメンのスープは濃いものが多くて敬遠していたけれど、ここのは違う。
最後の一滴までついつい飲んでしまう。

麺は細麺・太麺を選べ、固さも好みにしてもらえる。
具はチャーシュー、煮玉子、芋がら、クコの実などを使い、味の変化があって楽しい。
このチャーシューがまた美味しい。
娘によると、「絶品だなぁ。」と私はいつも同じ言葉を口にしているそうな。
ここの嬉しさはサイドメニュー。牛肉高菜飯、じゃこ鉄観音茶飯などがお気に入りである。
カウンター席しかなく小さい子連れでは入れないので、ゆうちゃんと一緒に行ったことはまだないのだが、この秋はそろそろ大丈夫だろうと楽しみにしている。
ゆうちゃんお得意の「美味しいポーズ」がきっと出るに違いない。

支店を数店出されたそうだが、とかく手を広げると味わいが落ちるところが多い。
どうか変らないでと願っている。

このむさし坊のすぐそばには「ラーメンアカデミー」なるものもできていて、各地のラーメンを楽しめるそうだが、私はまだ訪れたことがない。
「ラーメンアカデミーの楽しみ方」とか埼玉のラーメンを巡るタウン誌も書店で見かけるほど、埼玉県人のラーメンに対する並々ならぬ熱情は理解しがたい部分があるけれど...。

所替わって大阪のお話。
中央環状線の羽曳野ロータリーの近くに、九州ラーメンの店があった。
あったという言葉からして、過去形である。
豚骨ベースのスープだが決してしつこくなく、味もでしゃばらず、麺はシコッとしてムチムチ。
勿論自家製のチャーシューはしっとりとして厚めで旨い。
好みで入れるニラキムチも自家製で、実に美味しかった。
そこの野菜ラーメンが私たちは大のお気に入りだった。
吟味した野菜はシャキッ、パリッとしていて、麺やスープに絡まると絶妙のハーモニーをかもし出した。
価格は850円だったが、それだけで満腹になる充分な量があった。

ある日、あのラーメンが食べたいと出掛けたのだが、店内の雰囲気が何か違う。
店を切り盛りしていた女性が居ないし、調理場で忙しく動いていた男性二人の顔が違う。
「どうしたのかな?」と思い壁のメニューを見やると、「エッ、違うよ...。」
こういう場合、出るに出られないものだ。
「前の人はどうされたんですか?」とも聞けず、仕方なく注文をしたけれど、これがラーメン?という代物に目を白黒させた。

あのラーメン屋さんはどうしたんだろう。移転したのかな、もう辞められたのかな、でもそんなに年配の人ではなかったよ。あれこれと推理は巡る...。
「あの野菜ラーメンをもう一度食べたいね。」「ほんとに美味しかったよね。」
羽曳野ロータリー辺りを通過するたびに、いつもそんな会話を交わしている。

       
7/06  ラーメンあれこれ(1)
町の住いの極近にラーメン店がオープンした。
現代風の造りのなかなかオシャレな雰囲気の店舗は、工事中から気に掛かっていた。
何しろ連日三食とも麺でいいという麺好きを自認している。
探訪してみなくてはと開店二日目に出掛けたのである。

「***氏がプロデュースしている店」との看板には少し、いや、かなり引いたが、食べてみなくては判らないと勇気を鼓して入ってみる。
だいたいがこういう但し書きの店には今まで入ったことがない。頑ななまでに拒否反応を通してきた。
入るやいな、「食券をお買い求め下さい。」に面食らう。麺じゃない、面である。
大阪ではこのスタイルの店舗はあまり流行らないような気がする。
一番のお薦めは?との問いに「叉焼が自家製ですし、醤油葱叉焼ラーメンがお薦めです。」
「ウーン、950円か。」とは思ったが、そのお薦めを食してみる。
待っている間、店内の造りやカラーコーディネイト、店員さんの制服などに目が行く。
こういう点は実にスッキリしている。問題は麺と味である。
ようやく運ばれてきたラーメンに目をやって、色の濃さに吃驚する。
ひとくちスープを飲んで、味の濃さにまたまた吃驚。
出汁より先に醤油がくるのは、好みとしてはどうもいけない。
麺を食してこれも...と思う。チャーシューは薄くてパサパサしている。

傍らのkiiさんに囁く。「ごめんね。食べてみたいって言って...。」「ウン...。」
そのkiiさんの反応で、同じことを感じているのが判る。
「行列のできる...。」とか「***氏のプロデュース...。」とか、そう銘うった店にはもう絶対に入らないぞと固く心に誓ったことであった。
後も振り返らずにそそくさと店を出る。
価格に見合った美味しさは当たり前だと思うし、まれに安価で絶品の美味しさに巡り合うと、店主の味と心意気に拍手を送りたい心境になり、近くに行けば必ず寄る。
その逆は...。
私は沈黙してだんだん不機嫌になるそうな。
この癖は母娘に共通のようで、それぞれの連れ合い殿の悩みの種らしい。

開店一週間、結構盛況のようで、私たちの味覚が変だったのかなと考え込むこの頃である。
       
             

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