つれづれなるままに

1999年|2000年1月2月3月4月5月7月8月9月10月11月12月

6 月

【母のこと】 【池澤夏樹とヒース・ロビンソン】 【往路とぼとぼ・・・。】 

6/17 母のこと
毎年六月になると梅のエキスを作る。

青くて固い梅の、種を取りのぞきジューサーにかけ、絞り汁を小さな火でトロトロと何時間も煮詰める。これは我が家の、欠かせない常備薬になる。
私は狭い台所に椅子と本を持ち込み、焦がさないように番をする。
そしていつか、二十年前のこの月に、59歳で亡くなった母を偲んでいる。

料理と花が好きな人だった。
僅かな時間を見つけては台所に立っていた。
つつましい食事ながら豊かな思い出が残っているのは、工夫が上手だったからだろう。
「はるさんの育てる花は、どうしてこんなに綺麗な色なんだろうね。」
母の花を眺めながら表を通る人たちの話し声が、今も蘇ってくるようである。

長女の私は、生活の苦しさを少しは共有していたけれど、封印された母の哀しみには長い間気づかなかった。
貧しさの中で働きながらの子育ては、ゆとりもなかったのだろう。
物置の茶箱の中に大切にしまわれてあった、色褪せたたくさんの本を見つけた時、何か、胸を衝かれるような痛みを感じたのを覚えている。
「有島武郎」という文字だけが脳裏に刻み付けられた、私のセピア色の思い出である。
病に倒れ離婚し、平穏な日々の少ない母の人生だった。
教わったことは、いつも前向きに、そして潔く生きること・・・。

母の逝った年齢に私もだんだん近づいて、同じ生活志向を持っていることに吃驚させられる。
手仕事が大好きな人だったから、野迫川の生活を心から喜んでくれたに違いないのに・・・。
花と本の量だけは母を超えたかもしれないが、花への愛情も料理の腕も、まだまだ足元にも及ばない。

梅のエキスを作りながら、今年もそんなことを考えている。

6/8 池澤夏樹とヒース・ロビンソン
池澤夏樹のエッセイが大好きで、よく読んでいる。

「むくどり通信」からはじまるむくどりシリーズは「むくどり最終便」で完結したけれど、「次はどんなエッセイが・・・。」と待ち望んでいる。
歯切れの良いアップテンポな文章は、ぐいぐいと引き込んで離さない。
小説の方は、何冊かあるけれどもあまり読んでいない・・・。
どちらかと言えば、エッセイのみのファンである。
今は沖縄に住んでいるこの作者が、北海道は帯広の出身だとは長い間知らなかった。

先日町に出た際、彼の本を二冊手に入れた。
「未来圏からの風」「やさしいオキナワ」
共に、垂見健吾という写真家の写真が優しい。

最近、星野道夫の「旅をする木」「アフリカ旅日記」遺作となった「ノーザンライツ」を読んだ。
「未来圏からの風」には、まだ生存していた頃の星野道夫が生き生きとしていて哀しい。
                    *  *  *  *  *

池澤夏樹とヒース・ロビンソンには何の脈絡もない。

その日求めたもう一冊の本が、欲しかったヒース・ロビンソンの画による「わが庭に幸いあれ」。
この本にはブラウンが軽妙な文章を添えている。
カレル・チャペックの「園芸家十二ケ月」は私の愛読書で、擦り切れて何度も買い替えているのだけれど、この「わが庭に幸いあれ」も迷園芸家を彷彿とさせて楽しい。
「迷」とは、まるで自分のことのようで親近感を持てるが、実際には、彼らは素晴らしい園芸家であったに違いない・・・。
土と戯れることの出来ない日に、心を癒してくれる本をまた一冊見つけたことが嬉しかった。

6/2 往路とぼとぼ・・・。
最近町に出掛けるのは、ひどく苦痛である。
汚れた空気、人ごみ、溢れる音・・・。
帰宅した後にどっと襲う疲れが嫌で、つい出不精を決め込んでしまう。
そんな訳で「出掛けたくない病」の私だが、今日は某資格の更新講習のため仕方なく町へ。
 
長時間の、それも面白くもない講義にうんざりしながら、時間をやり過ごす。
某大学の先生の講義も、最初は少し眠気を誘っていたのだが、バリアフリー<ユニバーサルデザイン
というあたりから急に目がラン、気がシャンになる。
なぜユニバーサルデザインなのかというテーマが、西欧と日本の文化の違いにまで発展して時間を忘れる。
いかに聴衆を惹きつけるかということは、テーマや話しの上手下手だけではなく、話し手の誠意と熱意に他ならないと感じた。
これは様々な部分に当てはまることだとも実感。
ひときわ高かった労いの拍手が、多くの人を魅了したことを物語っていた。
 
町に出れば夕暮れの気配。
家路を急ぐ人達にもまれていても、心地よい興奮を覚えながら足取りは軽かった。
往きと帰りのあまりの違い・・・。げんきんなものである。


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